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血液型…A型/ 星座…牡牛座/ 性格…頑固な保守派/ 得意なこと…セリフの暗記/ 苦手なこと…手先を使うこと、音符を読むこと、整理整頓/ 口癖…あら、まあ!

2008年12月7日日曜日

「AKURO 悪路」


「AKURO」の再演を観てきました。前回TSの舞台を観たのは「タン・ビエットの唄」再演だったのですが、その時同様、号泣しました…。もうね、ハンカチじゃ足りないと思いますよ。ハンドタオルがしっとりしてしまうくらい泣きましたもん。
考えさせられることがいろいろあって、まだまとまっていない段階ではありますが、感想を書きます。ネタバレが大いにありますので、これからご覧になる方は読まれない方がよいかと思います。
征夷大将軍・坂上田村麻呂と、彼に抵抗する蝦夷たちの物語。
主人公は大和の人間でありながら、蝦夷たちの本当の姿を知り、彼らのために立ち上がろうとして命を散らす役人・阿倍高麿(坂元健児)。彼は大和の軍勢を率いる征夷大将軍・坂上田村麻呂(今拓哉)の持つ英雄のオーラに圧倒され、彼を尊敬しています。都では、田村麻呂の偉業は歌になり、子供でも知っているほど。大和の国の多くの民衆と同じように、田村麻呂は英雄、蝦夷は鬼だと信じていた彼は、赴任先で蝦夷たちの本当の姿を目の当たりにし、これまで信じていた価値観が一気に崩れさる。
大和と蝦夷が手を取って暮らすことはできないのか??
しかし、都で自分の失脚を目論む連中を見返すため、田村麻呂は一気に東北を平定して手柄を確固たるものにしようと総攻撃をかけてきた。たとえ反逆者の汚名を着せられようとも、真実を人々に知らせなければと立ち上がる高麿を信じ、蝦夷たちは最後の戦いに挑む…。
こうしてストーリーをまとめると、高麿や蝦夷が「正義」で、田村麻呂は「悪」ということになりそうですが、そうでもないと思うんですね。「人々が平和に暮らせる世の中に…」と訴える高麿に対して、田村麻呂が答えます。
「お前は一つ思い違いをしている。蝦夷どもは人間ではない」
この言葉は、田村麻呂の悪人ぶりを表しているわけではないと思います。彼は本当に蝦夷を人間とは思っていなかったと思うんです。だからと言って、別に本気で鬼だと思っていたわけでもなく、現代でも続いている人種差別なんですよね。たとえば、南北戦争の頃、アメリカの白人が黒人たちを「商品」「奴隷」としてしか見られなかったように。そして、ナチスに傾倒した人々がユダヤ人を迫害したように。私たちは皆、互いが同じ「哺乳類」で「人類」であることを知っているんです。なのに「別物」に感じてしまっている。これは田村麻呂一人のことではなく、大和の人々全員がこういう風に教育あるいは洗脳されているわけです。だから子供まで産ませた鈴鹿(神田沙也加)を捨てることもできる。人間ではないから。
現代に生きる私たちには、田村麻呂を悪人だと思う資格があるでしょうか。自分はあの民族よりは(もっと小さな規模でいえば、「あの人」よりは)優れている、と暗に思ってしまっていることはないでしょうか?
田村麻呂の「偉業」は、都では子供でも知っている歌になっています。人々はこの物語の内容を信じてしまっている。これは現代で言うところの教育、そしてマスコミの力と同じです。ちょっと前に自衛隊の人が論文を発表して話題になった「太平洋戦争のころ、日本はアジアに何をしたか」「アメリカは日本に何をしたか」ということもしかり。何が真実かなんて共通認識は今後も生まれないでしょう。大和が蝦夷のことを「鬼」だとしたのと同じように、都合のいいように私たちは歴史を伝えるから。
高麿の前に、たびたび登場する謎の若者(吉野圭吾)がいます。最初に高麿を蝦夷のところに連れてきたのも彼だし、逃がしたのも彼。1幕の段階で、どうやら彼はアテルイの生まれ変わりかなと思って見ていたのですが、生まれ変わりではなくて、アテルイその人(魂なのでしょう)でした。そう言われて思い返してみれば、彼は他の人がいるシーンでは登場しないんですよね。必ず高麿が一人の時に現れる。鈴鹿がいる時にも一度現れますが、鈴鹿は目が見えない。高麿以外の人とのやりとりがない役なんです。
高麿はアテルイに選ばれた者だったんです。自分が踏み出した小さな一歩の続きの一歩を踏み出してくれる者として。
田村麻呂が現代の「傀儡の正義」を具象化したものだとすれば、アテルイは「真実」の具象化だと思います。押し込められた真実。都合のいいように変えられてしまう真実。
最後の戦いで、刀を振り回す高麿の後ろで、まったく同じ動きをしているアテルイの姿は、本当に美しい!
これは高麿と田村麻呂の戦いではなくて、私たちの葛藤ではないでしょうか。認めたくない真実(正義)を封じ込めようとする私たち。イラクに対するブッシュ大統領の行いのような。(アルカイダを正当化しているわけではありません。アルカイダだって、内部では同じような「洗脳」「思い込み」が行われているでしょうから)
公演プログラムには、「当たり前の平和をぬくぬくと享受する現代の日本人への警鐘」とありますが、「平和を享受する人」に対してだけではなく、「都合のいい平和」を求める人に対する警鐘なのではないかと思います。
私たちが自分の都合のいいように物事を運べば、その一方では苦しむ人がいるかもしれないのです。
高麿やアテルイ、イサシコ(駒田一)の望むような「皆が手を取り合って平和に暮らせる世の中」なんてものが存在するのか…。「信じてみなければ何も始まらない」と言うアテルイの言葉は現実社会に通用するのか…。通用しない社会なのであるならば、私たちはどうすればいいのか…。そんなことを強く語りかける作品でした。

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